父親たちの星条旗


Frags of Our Fathers
2006年 米国
カラー/132分
監督:クリント・イーストウッド
出演:ライアン・フィリップジェシー・ブラッドフォード、アダム・ビーチ
IMDb:http://www.imdb.com/title/tt0418689/
 
起こり経験される出来事と、様々な思惑や政治のただなかで表象されることがら。その乖離。「事実」を僭称する表象の暴力。複数の時間軸を交錯させながら織り上げられる物語はそういった問題意識を喚起させるが、にもかかわらず最後のシークエンスにおいて、この映画はすべてをことばで説明し、単一の結論に落ち付けてしまう。「硫黄島の英雄を表象すること」と「戦場で生きた市井の男たちを表象すること」は同じだ。原初の出来事の衝撃が隠蔽される、という意味で。
 
息子世代と、親世代の「国債ツアー」と、戦場との、3つの時間軸が入れ子状になっている脚本のつくりはとても好み。

シュルレアリスムは、今日? 展覧会"Other Air"について。

Zavři oči a otevři okno.――目を閉じよ、窓を開けよ。
2月9日と10日、プラハの旧市街市庁舎で行われたシュルレアリスムの展覧会"Other Air(cz:Jiny Vzduch)"に行ってきました。

チェコとスロヴァキアのシュルレアリスト・グループの、1990年から2011年までの20年間の活動を総括するかなり大規模な展覧会です。上記2カ国の他、彼らと交流のあるグループや個人の作品が、イギリス、スウェーデンギリシャ、フランス、ルーマニアアメリカなどの各地から集められています。(実は出品者のなかにはLiyota Kasamatsuさんという日本の方の名前もあります。スウェーデンのグループと交流のある方だそう。)

日本だとシュルレアリスムって、アンドレ・ブルトン世代のことやフランスのことばかりが取り上げられたり、60年代くらいで終わったことになってたりするんですが、実は今でもシュルレアリスムに共鳴する作家たちが欧米各地でグループを作り、互いに密なネットワークを築いています。日本だとヤン・シュヴァンクマイエルの所属するプラハのグループのことが、赤塚若樹氏(id:wakagi)などによって紹介されています(シュヴァンクマイエルとチェコ・アートを参照されたし)。1月にはアメリカでSurrealism in 2012という展覧会も開かれました。
今回の展覧会について知らせて下さったのはLeeds Surrealist GroupのKenneth Cox氏。欧州各地からシュルレアリストが集まるという話でしたので、片道13時間かけて凸してきました。

いくつか作品や会場の様子を御紹介。冷静さを完全に失っていたせいでろくな写真が撮れてなかったりするんですが……。



作家ごとではなく、「オブジェ」「磁場」「泉」「雷光」という4つのテーマに沿って様々な作品が配置されています。
プラハのグループは、60年代から80年代にかけて共産主義政権下で地下活動を行っていた経緯もあってか、集団での制作や活動に特に重きを置いているそうです。なので今回の展覧会も、個々の作家のスタイルやグループの国籍に焦点を当てることなく、むしろそれぞれの作品にあらわれたイメージの共振を狙ったかたちで構成されている感じです。

Mordysabbath(Ody SabanとThomas Mordant)によるドローイング。

すっごくこまかい。

ここはシュヴァンクマイエル夫妻のエリアでした。...ただ、今思うと、亡きエヴァさんに捧げられていた区画だったのかもしれない。


オブジェが並べられたガラスケース。

パリの画家Ody Sabanによるオブジェ。怪獣っぽい。

Katerina Pinosovaのクリーチャー。かわゆい。

シュヴァンクマイエルの瑪瑙の靴。去年のシュヴァンクマイエル展に瑪瑙のサンダルが来てましたね。


旧市街広場に面した窓。窓にはキャプションがつけられていて、アンドレ・ブルトンシュルレアリスム宣言』の有名な「窓で二つに切られた男」のくだりと、1422年に広場で処刑されたフス派の神官ジェリフスキーのことと、プラハシュルレアリストJan Danhelが見た夢の話(生首をかばんに入れて持ってる友達とメトロに乗ってる、という)が書かれています。キュレーターのBruno Solarik氏いわく「客観的偶然」だよ、と。つまりこの広場に面した窓自体が「見出されたオブジェ」なのでしょう。実はこの展覧会で一番ぐっときた場所だったんですが、マニアックすぎて伝わりにくいかも……でもシュルレアリスム好きな方なら、この感じ解っていただけるはず……。
 
展覧会は4月4日まで開催中ですので、プラハにお越しの際は是非、お立ち寄りください。Brunoさんに「どんどん宣伝して!」と言われたから頑張るさ。
こちらで英語の案内が読めます。
チェコ語の公式サイトはこちら。
 
日本にシュルレアリスムのファンはいっぱいいるし、シュヴァンクマイエルのファンもいっぱいいるし、研究者だっていっぱいいるにもかかわらず、こんな面白いことをやっている人たちのことが日本でほとんど知られていないのはほんとうに勿体ないです。みんなもっと現代シュルレアリスムに目を向けるべき。
というわけで少しずつこのダイアリでも、テクストや書籍を紹介していければと思っています。最初は独立したサイトにしようと思っていたのですけれども、しばらくこのダイアリ使っていなかったし、ということで。
 
☆appendix
チェコのグループの公式サイトはここ。またこのグループの歴史については、最初期から40年代ごろまではLenka Bydzovska氏の論文が、シュヴァンクマイエルがいた60年代から90年代くらいまでの時期の、特にグループでの解釈ゲームについてはKrzysztof Fijalkowski氏の論文がそれぞれオンラインで読め、また詳しいです。御興味のある方はどうぞ。

☆☆2012/03/11 追記
本展覧会のプロモーション・ヴィデオがvimeoに上がっています。
会場、セッティング風景、レセプションの様子などあり。
http://vimeo.com/37965809

ゴモラ

2008年 イタリア
カラー/137分
監督:マッテオ・ガッローネ
出演:トニ・セルヴィッロ、ジャンフェリーチェ・インパラート他
公式サイト: http://www.eiganokuni.com/gomorra/
IMDb: http://www.imdb.com/title/tt0929425/
 
第七藝術劇場
 
犯罪組織ととともに生活するということについて。告発とか断罪とは少し違う目線。
カモッラの息のかかった服飾工場で働いていたが、中国人の工場でオートクチュールの技術を指導したせいで報復されてしまう仕立屋パスクワーレ。このエピソードだけでもうこの映画観て良かったと思う。
産廃処理会社の社長の台詞「これもヨーロッパだ」。
体面を保つことへのこだわり。組織に楯突くギャング気どりの若者を殺すのにも、抗争に巻き込まれたことにするために周到な用意をする。敵対するグループのどちら側につくか、実際には選択権などないのに「選ぶのはお前だ」という言い方をとる。「敵に回るか味方につくか、お前が選べ。ただし前者ならこの場で殺す」
ドライで突き放した撮り方のなかで、ごく限られたいくつかのシーンの哀切さが際立つ。(仕立屋を続けられなくなりトラックの運転手に転職したパスクワーレが、自分の作ったドレスを着た女優をテレビで観たときに浮かべる微笑。道端に棄てた桃を見下ろすロベルトの暗澹とした表情。)
超巨大団地、やばい。ロケ地の選び方と撮り方のセンスが好き。
サウンドトラックもやばい。エンディング曲がMassive Attackとか…。
ドン・チーロを演じたジャンフェリーチェ・インパラートがすてき。オノ・ナツメの作品に出てきそうなイタリア人。
 
どうでもいいけど、カモッラから融資を受けている老人が「こんな額じゃ暮らしていけない、40歳の息子をどうやって養えばいいんだ」というシーンで一瞬「息子、引きこもりのニートなのか……」と思ってしまった自分はたぶん日本のWebの空気に毒されてる。
 
経済的にぐずぐずになっているイタリアの地で、いまかれらはどうしているんだろう。

『キャタピラー』見てきた。

十三・第七藝術劇場にて。かなり期待して行ったんだけれど、残念ながら良い映画だとは思えなかった。すごく勿体無い感じ。
というわけで、以下、若輩者が身の程も省みず批判しまっせ。

■あらすじ。
太平洋戦争のさなか、ひとりの兵士が変わり果てた姿で故郷に戻ってきた。四肢と聴力と言葉を失い、顔はひどく焼けただれ、それでも食欲と性欲は旺盛だった。勲章を受け、新聞にもその功績が取り上げられた彼は、村の者たちに軍神とあがめたてまつられる。
一方で妻は「軍神」の伴侶として、夫の介護をすべて引き受けていた。食べて、寝て、セックスすることしか出来ない、そんな男の食事から下の世話まで、すべて。
閉塞した関係性のなかで、二人は次第に追い詰められてゆく。そして日本の戦局もまた、悪化の一途を辿るばかり・・・。
・・・このような物語に、戦争当時の資料映像やら、広島・長崎原爆をはじめとした犠牲者数のデータやら、元ちとせの歌う「死んだ女の子」やらが絡む。まったき「反戦映画」だ。
で、その「反戦」を前面に押し出した部分が、どうも今ひとつだった。夫婦の関係をもっと細やかに描いて、戦争期の生活の(それも障害者を抱えた生活の)独特の困難さと悲惨さを具体的に提示することに徹するべきだったと思う。
大きな物語
妻は不具の夫を「軍神さま」として村人の前に引きずり出すことで、自らのあまりに逼塞した日々に意義を与えようとする。夫の方もまた、自分のことが載った新聞や勲章をなんども眺めて、我が身に起こったことの意味を確保しようとする。
この夫婦は自分達の負った困難、直面した不条理を「大日本帝國」という(当時は圧倒的だったであろう)大義を持ち出すことでなんとか合理化し、耐えうるものにしようとするのだ。しかし、最終的にその企ては失敗し、彼らは果てしなく追い詰められることになる。
こうして一旦、大きな物語に回収され損ねた悲惨は――そして、そのこと自体にひとつの本質があるような類の悲惨は――戦場や空襲の犠牲者を映した資料映像や犠牲者数のデータと組み合わされることによって、反転した形でふたたび大きな物語へと位置づけなおされてしまう。「何もかもあの戦争が悪かったのだ!」と。
それに、外部の者がだれも気にかけない所為で、障害者と介護者が閉じた状態で逼塞していく――というのは、十分に今日的な問題でもある。戦争期だけの話ではない。しかしこの映画ではそれも最終的に「戦争」に回収される。
あまりにも視野狭窄的なつくりだといわざるを得ない。
反戦ものって・・・
正直、「戦争が悪い!」ということをメインにすえてしまった瞬間に、『キャタピラー』の物語の強烈さは骨抜きにされ、まさにこのような物語であることの意義を失っているように見える。わたしたち戦争を知らない人間が子供の頃から(たとえば学校などで)注ぎ込まれてきた多種多様な反戦をまなざした物語、大きな物語とがっちり結びついた形でしか提示されない様々な悲話と、いくらでも取り替えることができる存在になってしまった、そんな印象を受ける。
そして、現代においてそういう物語群がリアリティや実効性を持ちうるか、ひとのこころに残りうるのか、私はとっても疑問に思う(いや、小学生のころ、私ゃ戦争童話なるものがでぇっ嫌ぇだったのよ・・・)。
フライヤーに載ってたフレーズ(「忘れるな、これが戦争だ」)からは、「戦争を風化させてはいけない」という意気込みがひしひしと感じられはするのだけれど、正直、上の世代の人がいつまでもこんな形の語り方にとらわれているのでは、<戦争の悲惨さ>は陳腐化し、結果として風化する一方なんじゃないだろうか――なんてことを思ったりもする。穿ち過ぎかもわからんけれど。
■あともうひとつ、ちょっと気になったこと。
キャタピラー>となった夫に何度も何度もトラウマ的に回帰する戦場の映像があるんだけれど、そのほとんどが「自分が中国の女性を犯して殺した」映像である理由がいまひとつわからん。傷を負った者に回帰して止まないのは、自分が傷ついたときの出来事なんじゃないのか、単純に考えれば。いや、彼が四肢を失ったときのものらしい映像もちょろっとあったにはあったんだけれど、強姦のシークエンスに対して、そっちはたったワンカットだったし。いろいろ説明はつけられるんだろうけど、うーん……。

■『Dr.パルナサスの鏡』みてきた(ネタバレ自重してません)


世界観もストーリーも美術も、すべてがわたし好みすぎて、一日たった今でもほとんど脳内が支配されているのですが。えー、観てきました、ギリアム最新作。このところモンティ・パイソンを集中的に観ていたので、パンフレットに載った監督の顔を観てつい「年取ったなあ!」と思ってしまった…。
きのうが最寄りのシネコンでの上映最終日で、実は体調があまり良くなかったからどうしようかなぁとも思っていたのですが、たぶん映画館で見ないと後悔するたぐいの作品だと思ったので、行くことに。
基本的に、「わたしの好きなギリアムワールド」をひたすら期待してたので、もう大満足な出来栄えです。監督自身も「自分の興味のあるものの抄録を作ろうと思った」と語っているので、まさに"Imaginarium of Terry Gilliam"なわけ。IMDbで☆7つということで、世間的な評判もぼちぼち良いのかな。

■パルナサス博士の鏡。その内側は<イマジナリウム>、訪問者のイマジネーションと博士の魔術がつむぎあげる夢の世界。
博士は娘のヴァレンティナと奇術師の若者アントン、小人のパーシーとともに、鏡を使った見世物をしながら、移動式舞台でイギリスを放浪している。そのゆく先には、奇怪な悪魔Mr.ニックの姿がある。永遠の命を得た博士は、彼との契約により、16歳になるヴァレンティナを悪魔に捧げなくてはならない。
彼女の誕生日の3日前、ニックは賭けをもちかける。「もし自分よりも先に5人集めたならば、娘を奪わずにおいてやる」…。

■パルナサス博士の一座は、道中でトニーという名の青年を助ける。彼は記憶を失っていて、素性は一切知れず、なぜかロシアンマフィアに追い回されている。しかし一座に加わったトニーは巧みな話術と甘いマスクを使って、次々に鏡の中へと客を呼び込んでいく。
鏡の中の世界では、悪魔が罠を張っている。客は選択を迫られる。悪魔の側につくか、それともパルナサス博士の側につくか――。イマジナリウムを舞台に悪魔と一座の激しい攻防が繰り広げられる。

■イマジナリウムの光景はさにあらん、舞台や衣装・小物のデザインも漏れなく美しかった。やっぱりギリアムはイメージとデザインの人なのだなーと。個人的に気に入ったのがMr.ニックのたたずまいで、なんのメーキャップもないのに、その動きや表情からにじみ出る悪魔感(それも小物の)が半端ない。
子供のための慈善団体の幹部だったトニーの本性、彼が子供をダシにする狡猾な極悪人だったのか、それともマフィアに陥れられ失脚した悲運の人物だったのか、このところは最後まで決定的な回答が示されない。実のところ、まっすぐなカタルシスは無い、ちょっと皮肉の効いたクライマックスと結末なので(ラストは子供と小人のパーシーのこんな会話で締めくくられる。「ハッピーエンドなの?」「いや、それは保証できないね」)、ここで好みが分かれるのかな。
 
■イマジナリウムで一番気に入ったシークエンスが以下。
鏡の中に逃げ込んだトニーを追ってロシアンマフィアがわらわらと駆けてくる。すると地中から全長10mくらいの警官の頭がサイレンと共に回転しながら現れ、口の中からプリーツスカートと網タイツをはいた警官(全部男)が現れてへんてこな踊りをおどる。かと思うと、すぐそばにおかあちゃんと田舎の一軒家が出現し、マフィアたちに「帰っておいで!」と叫ぶ。警官のキモいダンスに辟易したマフィアたちは泣きながらそっちへ走っていくが、実はおかあちゃんも全長10mくらいあった。次々とおかあちゃんのスカートの中に入っていくマフィアたち。全員入ったところでおかあちゃんの首がすぽんと取れて操縦席が現れ、悪魔が現れて叫ぶ。「俺はシカゴに行くぞー!」
 
■「うわっ、『空飛ぶモンティ・パイソン』のアニメが3Dになった」と思った。

■このシーンの直前にはおばちゃんに扮したアントンがマフィアに喧嘩を売るシーンもあり、ああ、もう、まんまペッパーポットじゃん。