『空飛ぶモンティ・パイソン』は夢に似ている


つぶやきというか、ただの与太話。
 
何かの映像作品を見ている夢、というのを最近よく見る(ややしこい)。この前は、夢の中で『空飛ぶモンティ・パイソン』を見ていた。その映像は、まぁ夢なので、なんの脈絡もなく切り替わる。オチもなく、場合によっては特にストーリーもなく、ぱらぱらと移り変わる。登場するオブジェにだって、これっぽっちも整合性がない。
――でも、それって実際の本編とちっとも変わんないよね? と思ったのは目覚めてからのこと。
『空飛ぶ〜』のつくりは、ものすごく夢っぽい。突き抜けたデペイズマン、劇中に唐突に挿入されるナンセンスな長台詞、ぶん投げられ宙づりになるオチ、スケッチ同士の脈絡ない繋ぎ、イカれたひとびと(ex.ガンビー)、いきなり始まる不気味極まりないアニメーション*1、おまけにどこからともなく笑い声まで聞こえてくる! これがよくできた悪夢でなくて何だろう。
 
ここで唐突に話を飛ばすけど、チェコシュルレアリストヤン・シュヴァンクマイエルについての文章「実現された夢の世界」のなかで、赤塚若樹氏が彼の創作活動を「みずからの夢の世界、空想の世界を現実にしようと」するいとなみであるとした上で、こんな風に書いていた。
シュヴァンクマイエル・アートは一種のギャグを大まじめにやっているそのプロセス、もっとありていにいうなら、真剣にばかをやっているそのプロセスだといってみたいのだ。(中略)要するに言いたいことは、そのおかしさ、ありえなさ、ばかばかしさをまえにときにはクスクスと笑いながら、ときには大笑いしながら作品を見てもいいということ、何もきまじめにならなくてもいいということ以外にない」
うちの研究室のOGさんと話をしたとき、「シュヴァンクマイエルって笑えるから好き」と言ったら「うん、でもあれで笑える私の感性は大丈夫かなって思う」と言われてしまい、ちょっと自信喪失したんだけれど、だからこの文章なんかもう「で・す・よ・ねー!」って感じなんだけれど――とにかく、夢の世界を実現するいとなみの産物は、やっぱりへんてこだし、どうしようもなく笑える。裏返せば、笑えるものは夢っぽい、のだ。夢っぽいとはどういうことかというと、日常の秩序にたいして侵犯的であること、すなわち、より狂気に近いものであること。
シュルレアリスムモンティ・パイソンのスケッチは――あるいはある種のお笑いは――そういう一種の狂気の状態をまなざすところで、共通している、かもしれない、なんかそんな気がする、うん。眠いのでここで打ち止め。
 
最後にスパム・スケッチを置いていきます。

っていうか、正直、同世代に知ってる人がいなさすぎて寂しいです。TSUTAYAは『空飛ぶモンティ・パイソン』全部置くべき。『24』とかといっしょに。

*1:あ、そういえば『Dr.パルナサスの鏡』も見に行かなくちゃ

『戦場でワルツを』

監督/アリ・フォルマン
2008年/イスラエル/90分

2週間ばかり前に見に行って、非常におもしろかったので。アニメーションによるドキュメンタリー、という、たぶんすごく珍しい形態の映画。
作品の結末というかコアの仕掛けに触れているので、そういうの気にする方は、気をつけてくださいまし。

■あらすじ
1982年、レバノンの首都ベイルートパレスチナ人難民キャンプで、大規模な虐殺事件が起こる。映画監督のアリ・フォルマンイスラエルの兵士として、この事件の現場に居合わせていた。しかし2008年の今、彼にはその当時の記憶が全くない。ただひとつのイメージ――照明弾の降りそそぐ町を眺めながら、ぼんやりと海中に浮かんでいる自分――をのぞいては。
失われた記憶を探るため、アリは当時の戦友や指揮官、レポーターらにインタビューを行う。彼らの体験した戦争に呼応し、次第にアリの記憶の全貌と、虐殺の日の出来事が明らかになっていく。

■アニメーションであることの意味
鮮やかでありつつ抑制のきいた色調、影の多い精緻な絵柄、シャープな描線。動きそのものはFlashアニメーションのあのぬめっとした感じだけれど、画面に力があるので惹きつけられる。
アニメーションは時間や空間の表現が、実写に比べてずいぶん自由だ。インタビューの場面、話者が思い起こす記憶と幻覚、それを聴くアリのイメージと記憶、すべてが同じ次元に並ぶ。だからこそ、戦争にまつわるひとつひとつの事件――想起され、語られることで再生される戦場の体験――が、かなりの臨場感を持って伝わってくる。たぶん、この臨場感は実写の再現映像よりも生々しいはずだ。もしこの映画が<再現映像+インタビュー>というつくりになっていたら、見るほうは両者を無意識のうちに区別してしまい、映画内のすべての戦場の風景は却って「作り物」として受容されてしまっただろうから。
ドキュメンタリーの手法をとっているとはいえ、この作品は「実際の出来事の記録」とは少し異なった、ごく私的な体験と、記憶のながれを表現した物語である。そして、だからこそ戦争映画としての重みを持っている。
アリ・フォルマンははじめからこの作品をアニメーションにするつもりだったそうで「戦争とは非常に超現実的なものであり、記憶とはとてもトリッキーなもの」と語っている。なんというか、潔い人だ……。

■結末の衝撃
この物語は虐殺の犠牲者を写した、当時の実際の映像で幕を閉じる。アリが取り戻した最後の記憶、虐殺の現場の体験、彼の目の前にある死体の山。その実写映像
映像は作品内の時間軸を超えて、そして主客の境を越えて――記憶を再生するアリ/今この場で虐殺を目の当たりにするアリ/映画を見るわたしたち、この三者を越えて――立ち現れ、果てしない重みを持つ。映像は「物語の結末」でありながら(それがアニメーションではないがゆえに)「結末」という枠組みを超えたものとして観客に向けて流出する。こう言ってよければ、現前する。そしてこれまで語られてきたすべての出来事が、すべての戦争が、物語の次元から、観客が実際に生活を営む現実の次元へ向けて流れ込んでいく。

■結局
私はこれを見終わったあと、なんだか生きた心地がしなくて、ぼーぜんとマクドでポテトを食べておりましたよ。何か食べないとうまく自分を営めそうになかった。この衝撃がこの拙い筆で通じるんだろうか……とにかくすごい映画でした。

■ちなみに
この映画の存在を教えてくれたのが前の『水俣』の授業の先生なのだけれど、「今の日本のアニメシーンからは出現し得ないかたちのアニメーションだ」という彼の言葉が、ヲタク心に引っかかったりした。その言葉が当たっているかどうかは、もう、この映画の日本での配給権が「ずっと手付かずのまま、お蔵入りも噂されていた(fromフライヤー)」っていう辺りから明らかな気もするけれど。

■予告編
せっかくアニメーションなんだから動いてるとこを! ってことで、予告編を貼っておきます。

ネタの作法、オタクごとの位相。

ある友人にまつわることで、長いこと気になりつづけている出来事がある。個人的にちょっと興味のある問題につながることがらでもあるので、書きとめておく。
 
ライトノベルで発せられる「人を殺してはいけないのはなぜ」という問い 
 
彼はたいへんな読書家で、分厚い思想書から新書から小説から、ばさばさと読み漁っていたようだった。当時は奈須きのこの『空の境界』を愛読していた。
その中に登場する「なぜ人を殺してはいけないのかわからない」という(うろ覚えだけれど)そういうニュアンスの表現を指し、彼は「こんなことがさらりと書いてあるんだよね」と感慨深げにつぶやいて、何だかすごい真っ直ぐな瞳で私を見て「お前(この問いについて)どう思う?」と問いかけてきたのだ。
瞬間、わたしは「うわぁ!」と思った。たいへんな違和感。えらく居心地の悪い気分で、「さぁー? いかにもラノベ的な思考やと思うけど」とズレた答えを返した気がする。
当然ながら、ライトノベルだって、あらゆるタイプの読みが許容されなくちゃならない。ならないけれど、あの時わたしの抱いた違和感はそういうレベルのものじゃない、もう根本的な「これ、違う!」という感覚。だから、あんなにズレた答えしか返せなかった。
いったい、あの強烈な居心地の悪さってなんだったんだろう、わたしはあの時なんて言うべきだったんだろう、と、それがどうにも気にかかってしょうがなかったのだけれど。最近になってふと、その答えが出た。
 
遊びなんよ、って言えればよかったのだ。思想書の類でなされる学問的な問いかけとは位相のちがう、一種の言葉遊びや、と。
 
ガチしかなかった彼の世界と、ネタがないと不安な私の心性
 
ライトノベルやアニメなど、オタク的感性に向けられたものって、受容するときの(そして、場合によっては、発信するときの)不文律があるように思う。
深遠な思想も規模のでかい問題も、現実離れしたシチュエーションといっしょに、一旦は「ネタ」として、相対的なものとして、受容される。普遍的な問題は、相対化を経て、愉しまれたり、熱の入った議論の俎上に上ったり、ひとびとを魅了したり、萌え死にさせたり、する。
社会学者の大澤真幸氏が、オタクの心性を「アイロニカルな没入」と呼んでいたけれど、このあたりにもつながる話だろう。アイロニカルな没入って、つまり遊びなんだと、わたしは思う。本気の遊び。すこし違った経路をたどればパロディや風刺にもつながるような。笑い飛ばしながら愛を注ぐ、そういう複雑な距離感。
 
彼には、相対化の視点、「ネタ」というクッションが存在しなかった。思想書も娯楽小説も、全部「ガチ」で、まっすぐに彼に向かってくる。
逆に私は、「ネタ」をはさまないと不安でしょうがない。大きい物語には、どう考えても生身のままではコミットしていけない。もしも自分の根っこを預けてしまった物語が、間違っていたとしたら? 怖すぎる。
 
彼についてはその他にもいろいろ、ああこの子にはほんとにガチしかないのだ、という瞬間があった。決してネタに逃げない彼のあり方に、わたしは少しあこがれたりもする。
 
逆に、いつだったか彼が、自分に理解できない対象にぶちあたって困惑していたときに、「遊びでええねん、遊びで」と、一言でも言ってあげられればよかったのにと、そんなふうに思うこともある。

近況とか

 実生活が加速度的に忙しくなり、ネット上でのアウトプットはほぼはてなハイクのみ、みたいな状況が長く続いていたのですが。
なんやかやで10月の頭にとうとうオーバーフローを起こしてしまい、ひと月ほどの間なにもせずに引きこもってしまいました……。あぁ、びっくりした。
 
 そこはかとなく復調してきたと同時に、わやわやと活動したい気分になってきたので、これを機にネット上で描いたり書いたりすることを少しずつ再開してみようかなと思います。また急に沈黙するかもしれんけど。
 

『水俣――患者さんとその世界』

監督/土本典昭
1971年/日本/167分

 
 大学の授業で視聴。本当のところ、水俣病のことは、高校で習った以上のことは知らないんだけれど…。
 あんまり圧倒的な作品だったので、特に印象的だったところを書きとめておく。

■ことばのわからなさ
 これは以前、想田和弘の『精神』を観たときにも思ったことなのだけれど、ドキュメンタリー映画って、見始めてからしばらくの間、作品のなかで発せられることばがうまく聞き取れないというか、かなり理解しづらいような気がする。その発言に至るまでのこまかい文脈が一切わからないからだと思う。
 だから頭をフル回転させて、あるいは耳を澄ませて、理解しようとする。全くの部外者としての私が、映画を通じて特定の事態に立ち入る際に、ひとつ関門をくぐるような、そういう感覚。
  
 それとは別に、この映画には「お国ことば」のわからなさがあって、それに水銀中毒によるまひが加わると、観ている私にはもうさっぱり、その人が何を言っているのかわからなかったりもする。でも、かれの友人たちや母親には、難なく意思が通じている。かれらの関係性の濃密さが、ここで生々しく立ち現れてくる。
 
■怒れる人々
 水銀汚染によって壮絶な苦しみを被った患者たちは、怒りと怨嗟を以てチッソを「人殺し」となじり、自らの惨状を訴えて全国をまわる。かれらの活動を支え、かれらの怒りを共有する支援者=非当事者がいる。非当事者も当事者と共に株主総会に乗り込み、チッソの責任者に掴みかかる。チッソという会社に、ひいては公害を生んだ社会に対して罵声を浴びせ、路上で患者の状況を語ってむせび泣く。
 でも、支援者の経験と患者の経験は、根本から異なっているはずだ。作中に、「いっしょに水銀を呑んでみろと、チッソの責任者に云ってやればいい」というセリフが登場する。でも、共に水銀を呑むことができないのは、すべての「支援者」も同じことではないのか。
 当事者と非当事者との断絶に対する反省が無いままに、当事者とともに突き進んでいく人々に、その心性に、私はぬぐいきれない違和感を覚えてしまう。
 怒れる非当事者は、「正義」をかさに愉しげに暴力を振るう人々へと、容易に転化しうるのではないか。
 
 当然、支援者にも様々なひとがいただろう。自らの非当事者性に悩んだ支援者もあったかもしれない。(そこは多分、水俣問題についての文献をひもとけば、ある程度、知ることができるんだろう)
 また、非当事者が当事者とともに声を上げることによって、様々な形で事態が開けていったというのも理解できる。
 他人の問題を自分の問題として引き受けて行動を起こすことができるのは、人間の美点である、という考え方もできよう。
 
 正直この問題は考えれば考えるほどわやくちゃになってしまうので(時代背景や細かい事実関係など、私の知らないことも多いし)、とりあえずこういう違和感を感じたよ、ということだけ。
 
■海の存在感
 海は汚され殺されたものの場ではなく、生きて今そこに在る場として描かれている。美しい。題材としては、ともすれば「チッソと行政 vs 患者と汚された世界」という二項対立の構図に収束しそうになるんだけど、この海の存在感は二項対立をはるかに超えたところにあり、見る人に複雑な余韻を残す。

■文フリ行ってきました。

 ほぼ半年くらいぶりの東京でございます。
 ウミユリクラゲの「tetRa」ですが、なんと持ち込んだ30枚、完売しました。買って下さった方をみんなまとめて抱きしめたいですひゃほい! ご意見とかご感想とか、お待ちしております。
 しかしこう、ものを売るというのは、一種のパフォーマンスですね。はす向かいの脳内はちみつジャンクションさんの呼ばわりがやたらとクオリティ高く、後でお聞きしたら、その方は路上でパフォーマンスをされているということでした。
  
■イベント後には回廊+てのひら怪談+オマケ・ノベルという構成の飲み会に混ぜていただきました。折角秋山さんが引き合わせて下さったのに、くたびれてへろへろになっていて申し訳なかった。。。もっといろいろお話ししたかったです。
 
■パフォーマンスと言えば、よせてもらっているガムラングループのライヴで詩を朗読することになりそうです。この遥彼方、いよいよ何をやってる奴なのかわからなくなってまいりましたが、まあ、われはわれである、というジャム的精神で頑張っていきます。(わけわかめ)(だってもうねむたいんだもの)

文フリ出没情報

ウミユリクラゲで第八回文学フリマに出ます。

http://umiyurikurage.sakura.ne.jp/tetra/tetra.html
小さな絵本風のノベルゲームを制作しました。全体の企画とイラスト、テキストの一部、を担当しています。
うららかな春の日、道端で息絶えた一人の旅人を巡って、三つの物語が交錯します。例によって一筋縄ではいかない、奇妙で切ない物語に仕上がっています。
  
当日、遥彼方はC-52でぼんやりとしていますので、お気軽に声をかけてください。