シュルレアリスムは、今日? その3-1

■夢は第二の人生――ヤン・シュヴァンクマイエルによる精神分析コメディについて(前篇)

Bruno Solařík
和訳:かわかみはるか / Haruka Kawakami


{以下は、Phosphorの第3号「取り戻される記憶/Memory Reclaimed」(2011年)に掲載された、ヤン・シュヴァンクマイエル最新作『サヴァイヴィング・ライフ』の評論です。著者のブルノ・ソラジーク氏は1968年生まれの作家、写真家、歴史学者チェコシュルレアリスト・グループのメンバーであり、現在は雑誌ANALOGON編集委員、また2月の展覧会Jiny Vzduch/Other Airではキュレーション・チームのリーダーを務めた人物でもあります。}


――この本が吐露している信念のすべてでさえあることは、精神のもっとも非反省的な活動の内容をつぶさに検討しつつ、表面に生ずる驚くべき、心安らかならざる沸き立ちへともし強引に移行するならば、一つの毛細繊維のごときものを明るみに出しうるということであって、それについて無知である場合、精神の循環を思い描こうといかに巧みをつくしても空しいであろう。この繊維の役割とは、すでに見たように、思考のうちにおいて、外的世界と内的世界とのあいだに生じうべきコンスタントな交換を保証することであり、この交換は覚醒状態の活動と睡眠の活動との絶えざる解釈を必要とするものなのだ。

――アンドレ・ブルトン「通底器」、豊崎光一訳
アンドレ・ブルトン集成』1巻、332-333ページ。


 ヤン・シュヴァンクマイエルは、彼の映画『サヴァイヴィングライフ』の解説として上記の文章を選んだ。この映画で彼が成し遂げたのは、実に希少な事態だ――つまり、変えることのできないものごとの状況に対して、長年にわたって変わることのないスタイルを保持してきたアーティストが、ラディカルに反旗をひるがえしているということ。その兆候はより以前からあったものの、本作のひとつ前の『ルナシー』で、シュヴァンクマイエルは自身の長編映画におけるオブジェのアニメーションの位置づけを、さらに深く転換させていた。彼のアニメーションの<古典>ともいうべき典型的なイメージ(みだらな遊戯に興じる肉片たち)が用いられているとはいえ、それはむしろ[映画の中心的モティーフであるというよりは]物語の筋を縫い合わせる役目を担っていた。そして今回、シュヴァンクマイエル長編映画にふたたびアニメーションの原理を持ち込む。『ルナシー』とは対照的に、今回、生身の人間が演じるシーンはアニメーション化された全体につけ足されるのみだ。ただ彼は、よく知られた、そしてわたしたちも見慣れた<シュヴァンクマイエルふうの>オブジェのストップモーションではなく、それまでの作品ではあまり無かったようなかたちとモノの動かし方によって、アニメーション化された全体を予期せぬ形でひっくり返した――彼が選んだのは、子供や若者向けのカートゥーンに用いられるような、切り絵アニメーションの手法だった。その成果は斬新という以上のものだ。切り絵アニメーションの技法が、グロテスクな戯画を動かすのではなく、プラハの古風な風景をバックにして実際の俳優たちの写真に生命を吹き込んでいるということも、また新鮮な効果を生んでいる。これが何のエフェクトもかけられていない、ごく普通の写真であるのもいい。時折生きた俳優の映像と幻想的に入れ替わるこの人々は、しかし映画を織りなす唯一の登場人物というわけではない。映像の文法に則れば背景として扱われる部分の、その自由気ままな構造こそが、この作品の際立って重層的なストーリーラインを形作っている。中心的な物語の中で起こるできごとの意味は、しばしば背景(つまり映画の周縁)に反映されるか、あるいは夢に似たやりかたで、暗号化されたアレゴリーへと歪められていく。

 物語の筋は「精神分析コメディ」という映画のサブタイトルによってすでに充分に表されている。あるいは「精神分析についてのグロテスク」と言い換えてもよいかもしれない。この作品では、科学としての精神分析は、ゆたかな笑いと冷やかしのネタにされている。シュルレアリストとしてのシュヴァンクマイエルの立ち位置からは想像しづらいことだが、しかしそう感じるのは初めのうちだけだ。もっとも威力のあるアイロニーとはつまり自己に対するアイロニーなのであって、精神分析に対するこれらの冷やかしが、実のところは新しい発見への愛着とあらゆる――精神分析的なものを含む――クリシェへの軽蔑からきていることは明らかだ。<治療行為>につきものの「すべてを解決する手段」というロマンティックな理解をくじくような、筋の通った論理の鎖を持ちこむのは、たとえば精神分析家のホルボヴァー女史のモノローグだ。現実が及ぼす圧力のもとでは、自らの職業的な理想に妥協をしなくてはならないということに、彼女は不平をこぼす。ホルボヴァーは、患者が自由連想のメソッドに基づいて話をするべきだと強調する一方で、教師のように嘆息する。「でも、そのための時間はないわね。わたしが何人患者を抱えていると思う? 虫歯を抜くように、ひとりひとりから問題を取り除いていかなくてはならないの。」そして物語の方も、同じように、強力な偶像の愉快な冒涜といった調子で展開してゆく。[ホルボヴァーとエフジェンの] 対話は、通俗的な言い回しを翼のようにひろげてゆくことだろう。主人公のエフジェンが、自分は妻との関係に満足している、と述べたのに対して、ホルボヴァーは言い返す。「幸せならよかったわね、でも無意識の方はどうかしら?」そして仕上げに、大口を開けた株仲買人のごとき力強さで打ち明けるのだ――「まだ話していなかったけど、奥さんがここへいらっしゃってあなたのことを尋ねるものだから、何から何まですべて話したわ」

 「呪われた」詩人、ジェラール・ド・ネルヴァルが記したように、夢とは第二の人生である。映画の中で、この命題は恋人によってエフジェンに提示される。そしてシュヴァンクマイエルがそこへ付け加えることには、人生とは曖昧なものだ。具体的には、悲喜劇だ。すべてがあらかじめ決まってしまっているにもかかわらず、わたしたちは何事かを為そうともがくのだから――それでも勿論、すべては同時に偶然でもあるのだけれど!「わたしたちの知識のすべては、実のところ、受け継いできたものを思い出してゆくことでしかないんだ」と、元カメラマンのフィケイズ氏が語る。彼は入院着を身にまとい、白鳥にパンをやる代わりに、蛇男にカエルを与えている。映画におけるフィケイズの役割は老いた賢者だ。コメディというジャンルにしてはむしろ感傷的に表現されたこの役柄は、多くの観客に鳥肌(かもしくはワニ肌)を起こさせるかもしれない。あるいはこの映画の中での別の場面、[フィケイズとは] 対照的な、醜い老婆の存在を思い出させるだろう(彼女は本作全体を通して、もっとも興味深いキャラクターのひとりだ)。彼女は奇怪な赤ん坊(ストーブ、巨大な卵やそれに似たもの)を入れた乳母車を押してエフジェンの夢の中を練り歩き、自らを神や偉大な権力者になぞらえ、果てはナポレオンやカール・マルクスであるとまで自称して、ホルボヴァー女史の注意深いまなざしの前にその正体をさらけ出す。老婆はエフジェンの超自我だ(このことは、彼女がエフジェンの夢の中で怒鳴るときの性的なアンビヴァレンスにも見て取ることができる「あたしを買収しようってのか、このクズ野郎! その手にはのらないよ!」*1 )。この映画における、あいまいで悲喜劇的な出来事の性質は、その危うい愉しさについてのシリアスなメッセージを伝えてくれる。笑いは究極的にはシリアスなものであり、そしてシリアスな致命的事態とはまた――同時に――笑えるものなのだ。最も重要なことは、これらすべてが一度に、まさにひとつの同じ瞬間に、やってくるということだ。

(後篇に続く)

*1:原注:ここでは女性のキャラクターが男性形の動詞を用いていることが、チェコ語話者の観客にはすぐに理解される