『戦場でワルツを』

監督/アリ・フォルマン
2008年/イスラエル/90分

2週間ばかり前に見に行って、非常におもしろかったので。アニメーションによるドキュメンタリー、という、たぶんすごく珍しい形態の映画。
作品の結末というかコアの仕掛けに触れているので、そういうの気にする方は、気をつけてくださいまし。

■あらすじ
1982年、レバノンの首都ベイルートパレスチナ人難民キャンプで、大規模な虐殺事件が起こる。映画監督のアリ・フォルマンイスラエルの兵士として、この事件の現場に居合わせていた。しかし2008年の今、彼にはその当時の記憶が全くない。ただひとつのイメージ――照明弾の降りそそぐ町を眺めながら、ぼんやりと海中に浮かんでいる自分――をのぞいては。
失われた記憶を探るため、アリは当時の戦友や指揮官、レポーターらにインタビューを行う。彼らの体験した戦争に呼応し、次第にアリの記憶の全貌と、虐殺の日の出来事が明らかになっていく。

■アニメーションであることの意味
鮮やかでありつつ抑制のきいた色調、影の多い精緻な絵柄、シャープな描線。動きそのものはFlashアニメーションのあのぬめっとした感じだけれど、画面に力があるので惹きつけられる。
アニメーションは時間や空間の表現が、実写に比べてずいぶん自由だ。インタビューの場面、話者が思い起こす記憶と幻覚、それを聴くアリのイメージと記憶、すべてが同じ次元に並ぶ。だからこそ、戦争にまつわるひとつひとつの事件――想起され、語られることで再生される戦場の体験――が、かなりの臨場感を持って伝わってくる。たぶん、この臨場感は実写の再現映像よりも生々しいはずだ。もしこの映画が<再現映像+インタビュー>というつくりになっていたら、見るほうは両者を無意識のうちに区別してしまい、映画内のすべての戦場の風景は却って「作り物」として受容されてしまっただろうから。
ドキュメンタリーの手法をとっているとはいえ、この作品は「実際の出来事の記録」とは少し異なった、ごく私的な体験と、記憶のながれを表現した物語である。そして、だからこそ戦争映画としての重みを持っている。
アリ・フォルマンははじめからこの作品をアニメーションにするつもりだったそうで「戦争とは非常に超現実的なものであり、記憶とはとてもトリッキーなもの」と語っている。なんというか、潔い人だ……。

■結末の衝撃
この物語は虐殺の犠牲者を写した、当時の実際の映像で幕を閉じる。アリが取り戻した最後の記憶、虐殺の現場の体験、彼の目の前にある死体の山。その実写映像
映像は作品内の時間軸を超えて、そして主客の境を越えて――記憶を再生するアリ/今この場で虐殺を目の当たりにするアリ/映画を見るわたしたち、この三者を越えて――立ち現れ、果てしない重みを持つ。映像は「物語の結末」でありながら(それがアニメーションではないがゆえに)「結末」という枠組みを超えたものとして観客に向けて流出する。こう言ってよければ、現前する。そしてこれまで語られてきたすべての出来事が、すべての戦争が、物語の次元から、観客が実際に生活を営む現実の次元へ向けて流れ込んでいく。

■結局
私はこれを見終わったあと、なんだか生きた心地がしなくて、ぼーぜんとマクドでポテトを食べておりましたよ。何か食べないとうまく自分を営めそうになかった。この衝撃がこの拙い筆で通じるんだろうか……とにかくすごい映画でした。

■ちなみに
この映画の存在を教えてくれたのが前の『水俣』の授業の先生なのだけれど、「今の日本のアニメシーンからは出現し得ないかたちのアニメーションだ」という彼の言葉が、ヲタク心に引っかかったりした。その言葉が当たっているかどうかは、もう、この映画の日本での配給権が「ずっと手付かずのまま、お蔵入りも噂されていた(fromフライヤー)」っていう辺りから明らかな気もするけれど。

■予告編
せっかくアニメーションなんだから動いてるとこを! ってことで、予告編を貼っておきます。