シュルレアリスムは、今日? その3-2

■夢は第二の人生――ヤン・シュヴァンクマイエルによる精神分析コメディについて(後篇)

Bruno Solařík

和訳:かわかみはるか / Haruka Kawakami
前篇はこちら。


 探偵ものの観客に先に犯人を教えてしまうのは、あまり褒められたことではない。この映画でシュヴァンクマイエルがやってのけたもうひとつの離れ業のことを考えるなら、この評論もそうしたルールから逃れるわけにはいかないだろう。彼は(この作品のグロテスク的なつくりにもかかわらず)精神分析とは結局のところ探偵小説に他ならないということをうまく暴露している。まず初めに、いくつかの手がかりからなるひとつながりの鎖が構成される。そのひとつひとつは気味が悪いほど不可解なものだが、そうであるからこそ鎖は環を形作ることができる。この環の中で、当初はまったくわけのかわらないものだった幾つもの徴は、すべての欠片が正しい場所に置かれた恐ろしいまでにはっきりとしたモザイクを出現させる。

 ここでプロットを明らかにしておかなければなるまい。妻との関係に満足している壮年の男性エフジェンは、夢の中では他の女性と不倫をしている。彼を現実に引きずり戻すようなかかりつけ医の紹介を通じて、彼は精神分析家の世話になる。「彼女は夢のことなら何でも知っている。それで生計を立てているからね」だがエフジェンは自分の症状に対処してほしいのではなく、その逆に、眠りに落ちてから意図的に恋人と会うための方法を知りたがっている。自分の夢をコントロールするにはどうすればいいのかというエフジェンの性急な質問に、ホルボヴァー女史は科学的にはそんなことは不可能だとつれない返事だ。しかしエフジェンはさらにとんでもない言葉を返す。「なら……非科学的な方法では、どうです」結局、エフジェンは古書店で、エルヴェ=サン=ドニ侯爵の『夢とその操向法――実践的考察』*1を見つけ、望むような結果を引き出すためには眠っている間の雰囲気づくりが重要であると知る。侯爵本人は、自分が夢の中で会おうとしている女性がアヤメを好んでいたということで、半睡状態の時にアヤメの根を口に咥えさせていた。そういうわけで、エフジェンは家の物置から、自分の恋人が夢の中で見せたことのある母のワニ皮の鞄を持ってくる。その持ち手を咥えて眠りにつくと、勿論、彼の企ては成功する。夢へと侵入するためのこの<非科学的な>方法はまた、原始的な<接触>の魔術の発想とともに後でふたたび登場する。この方法には伝染性があるのだ。

 この原始的魔術に似た、あるいは魔術的な原始に似た性質――他の書き方もあるだろう――は、充分に有機的なかたちで、この映画のグロテスク的な全体を特徴づける、野蛮で残酷なコメディを推し進める。結局のところこうした性質は、言葉の本当の意味で幼児的な、徹底的に「ブルー・ユーモア」*2 的な(厚かましいまでに露骨な)生々しさを映画全体に与えるのだ。エフジェンの妻ミラダは彼の夢に侵入し、愛人を探し回る。彼女は例の、夢の中に遍在する老婆に愛人の行方をたずね、その女はワニ皮のハンドバッグを持っていると話す。老婆は爆発しそうに意味深な例えをもって返答する。「ワニは本物の猛獣さ、ごらん!」袖をまくると、ワニに咬まれた傷で覆われた汚い腕が露わになる。

 こうした生々しく露骨な出来事は、先述したように、すでに物語の「背景」に自らを顕現させていた。モンティ・パイソンめいたシーンが大量に展開する。静まり返った通りをはさんで、文字通り立ち上がって互いに近寄る二軒の家。様々なオブジェに混じって窓から窓へと飛び交う人間の身体。(まるでそれがごくありふれたことであるかのように、ストーブが煙を吐きながら飛んでゆく)。もっとも露骨な精神分析的象徴にはこんなものもある――ガスボンベを満載したトラックが俳優の背後を通り過ぎてゆき、続いて反対側からスイカを満載したトラックが、そして少し間を置いて、こんどはボンベとスイカを一緒に載せたトラックが横切ってゆく。また直径二メートルはあろうかというリンゴがひとつ、何の脈絡もなく通りを横切ってゆき、壁にぶつかってこなごなになる。それらを背景にまるで何事もないかのようにエフジェンの対話が進行する、この不条理ときたら。言うまでもなく、ホルボヴァー女史のオフィスでは、見紛いようもない二枚の肖像写真が、互いに殴り合いを続けている……。





 後から吹きこまれた俳優の声が、コメディを演じていることを意識しすぎているように聞こえてしまうことで、この映画のユーモラスな効果はやや減じられてしまっているようにも思われる。彼らが深刻さのイリュージョンをもっと上手く作りだしていたなら、映像との対比がすばらしい効果を生みだしていただろう。

 子どもの頃に親しんだシンプルな道具や古いおもちゃといった、相互に絡み合うモティーフについてのシュヴァンクマイエルの強迫観念は、これまでの作品の背景、とくにアニメーション映画においてある種のクリシェを形作ってきた。それはエルンストやダリ、あるいはマグリッドなどのクリシェというわけではないにしても、<シュヴァンクマイエルの>クリシェとして定着している。だからますます、この『サヴァイヴィングライフ』という映画に置いて用いられているスタイルがもたらす、唐突で目を見張るような新鮮さを、わたしたちは熱烈に評価するべきだろう。

 誤解のないようにつけ加えておくと、彼のこの作品に限らず、映画や美術作品においてはスタイルのあり方だけが重要な役割を担っているわけではない。まったくそんなことはない。ただ大切なのは、スタイルが形式主義へと陥ってしまうぎりぎりの所で「スタイルを変える」ということは、逆説的に、作品の実際の中身に匹敵するほどに重要であるということだ。シュヴァンクマイエルが(これが初めてではないにしろ)実験的で不安定な、難しいアプローチを行うために、よく馴染んだスタイルから一歩を踏み出したことは注目に値する。

 この大胆さは、シュルレアリスムを是認するこのアーティストが――創造行為の場を含む――芸術運動としてのシュルレアリスムではなく、表現活動の凝縮された自由の場としてのそれを大切にしているということの証だ。こうした意味でのみ、シュルレアリスムは十全に理解されうる。

 もし、シュヴァンクマイエルのこの新しい<夢=映画>が、彼の作品の長年にわたる<独自のスタイル>に馴染んだ観客から歓迎されなかったとしても、わたしは驚きはしないだろう。ただ、この作品は、いわゆるスタイルに関心を払わない人たちの間でも多くの支持者を獲得するのではないかと思う。そのスタイルがどのようなものであれ、アーティストの感覚のパーソナルな独自性からくる、驚きに満ちたユニークな体験を好むような人たちなら……。

 みずからの人生を生き抜くためにはみずからの夢を理解しなくてはいけない、という認識こそがこの映画に込められたメッセージだ。二つの状態――一見、はっきりと対立するような夢と現実――をある種の究極的な現実、もしこう言ってよければ超-現実へと合一させようとする要請は、この映画では(<超-現実>がしばしば誤解されているような意味での)哲学的、イデオロギー的公理としてではなく、ひとつのリアルな人間の経験として提示されている。<超-現実>は、認識を超えた事柄の神秘的な経験に対する、プラトニックでユートピア的な信仰ではない。逆にそれは個人ごとの経験的な知識、現実に対立するものが認識可能なかたちで合一するような、そうした経験についての知識に基づいたものだ。
主観的な(「内的必然性」に則って)イメージを産出する概念と、客観的で手に触れることのできる感覚と、この二つを統合する経験を追い求めるシュルレアリストの挑戦は、現実がそれぞれの生に影響を及ぼすのと同じように想像的なものもまた実効性を持つのだという、堅い信念に基づいている。
 夢の内側からの叫びは、<意識のある>ときにうっかり熱いやかんに触れた時の声と同じくらいに意味のあるものだ。夢は現実にこのようにして作用する――誰もが似たような経験をしてはいても、そこから実際的な結論を引き出せる人は多くはない。ヤン・シュヴァンクマイエルはそういう人々の側にいる。


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最後になりましたが、翻訳・掲載の許可を下さったLeeds Surrealist Groupとブルノ・ソラジーク氏にお礼申し上げます。
I appreciate Leeds Surrealist Group and Mr. Bruno Solařík for the permission of translation and reproduction of this article.

*1:ブルトンが「通底器」の冒頭で言及している書物。1867年に無署名で刊行され、「通底器」が発表された1931年にはすでに手に入れにくい本だったらしい。「どうやら彼はつぎのように考えた最初の人だったように思われる、つまり、およそ最高の美女のつれなさにも首尾よく打ち勝ち、その美女がたちまちのうちに最後の大切なものまでも与えてくれるようにすることは、何もそのために――魔術に助けを求めたりしなくても、十分可能である、と。」

*2:差別、暴力、性などにまつわるきわどいユーモアのこと。ブラック・ユーモアとほぼ同義。