ネタの作法、オタクごとの位相。

ある友人にまつわることで、長いこと気になりつづけている出来事がある。個人的にちょっと興味のある問題につながることがらでもあるので、書きとめておく。
 
ライトノベルで発せられる「人を殺してはいけないのはなぜ」という問い 
 
彼はたいへんな読書家で、分厚い思想書から新書から小説から、ばさばさと読み漁っていたようだった。当時は奈須きのこの『空の境界』を愛読していた。
その中に登場する「なぜ人を殺してはいけないのかわからない」という(うろ覚えだけれど)そういうニュアンスの表現を指し、彼は「こんなことがさらりと書いてあるんだよね」と感慨深げにつぶやいて、何だかすごい真っ直ぐな瞳で私を見て「お前(この問いについて)どう思う?」と問いかけてきたのだ。
瞬間、わたしは「うわぁ!」と思った。たいへんな違和感。えらく居心地の悪い気分で、「さぁー? いかにもラノベ的な思考やと思うけど」とズレた答えを返した気がする。
当然ながら、ライトノベルだって、あらゆるタイプの読みが許容されなくちゃならない。ならないけれど、あの時わたしの抱いた違和感はそういうレベルのものじゃない、もう根本的な「これ、違う!」という感覚。だから、あんなにズレた答えしか返せなかった。
いったい、あの強烈な居心地の悪さってなんだったんだろう、わたしはあの時なんて言うべきだったんだろう、と、それがどうにも気にかかってしょうがなかったのだけれど。最近になってふと、その答えが出た。
 
遊びなんよ、って言えればよかったのだ。思想書の類でなされる学問的な問いかけとは位相のちがう、一種の言葉遊びや、と。
 
ガチしかなかった彼の世界と、ネタがないと不安な私の心性
 
ライトノベルやアニメなど、オタク的感性に向けられたものって、受容するときの(そして、場合によっては、発信するときの)不文律があるように思う。
深遠な思想も規模のでかい問題も、現実離れしたシチュエーションといっしょに、一旦は「ネタ」として、相対的なものとして、受容される。普遍的な問題は、相対化を経て、愉しまれたり、熱の入った議論の俎上に上ったり、ひとびとを魅了したり、萌え死にさせたり、する。
社会学者の大澤真幸氏が、オタクの心性を「アイロニカルな没入」と呼んでいたけれど、このあたりにもつながる話だろう。アイロニカルな没入って、つまり遊びなんだと、わたしは思う。本気の遊び。すこし違った経路をたどればパロディや風刺にもつながるような。笑い飛ばしながら愛を注ぐ、そういう複雑な距離感。
 
彼には、相対化の視点、「ネタ」というクッションが存在しなかった。思想書も娯楽小説も、全部「ガチ」で、まっすぐに彼に向かってくる。
逆に私は、「ネタ」をはさまないと不安でしょうがない。大きい物語には、どう考えても生身のままではコミットしていけない。もしも自分の根っこを預けてしまった物語が、間違っていたとしたら? 怖すぎる。
 
彼についてはその他にもいろいろ、ああこの子にはほんとにガチしかないのだ、という瞬間があった。決してネタに逃げない彼のあり方に、わたしは少しあこがれたりもする。
 
逆に、いつだったか彼が、自分に理解できない対象にぶちあたって困惑していたときに、「遊びでええねん、遊びで」と、一言でも言ってあげられればよかったのにと、そんなふうに思うこともある。