『水俣――患者さんとその世界』

監督/土本典昭
1971年/日本/167分

 
 大学の授業で視聴。本当のところ、水俣病のことは、高校で習った以上のことは知らないんだけれど…。
 あんまり圧倒的な作品だったので、特に印象的だったところを書きとめておく。

■ことばのわからなさ
 これは以前、想田和弘の『精神』を観たときにも思ったことなのだけれど、ドキュメンタリー映画って、見始めてからしばらくの間、作品のなかで発せられることばがうまく聞き取れないというか、かなり理解しづらいような気がする。その発言に至るまでのこまかい文脈が一切わからないからだと思う。
 だから頭をフル回転させて、あるいは耳を澄ませて、理解しようとする。全くの部外者としての私が、映画を通じて特定の事態に立ち入る際に、ひとつ関門をくぐるような、そういう感覚。
  
 それとは別に、この映画には「お国ことば」のわからなさがあって、それに水銀中毒によるまひが加わると、観ている私にはもうさっぱり、その人が何を言っているのかわからなかったりもする。でも、かれの友人たちや母親には、難なく意思が通じている。かれらの関係性の濃密さが、ここで生々しく立ち現れてくる。
 
■怒れる人々
 水銀汚染によって壮絶な苦しみを被った患者たちは、怒りと怨嗟を以てチッソを「人殺し」となじり、自らの惨状を訴えて全国をまわる。かれらの活動を支え、かれらの怒りを共有する支援者=非当事者がいる。非当事者も当事者と共に株主総会に乗り込み、チッソの責任者に掴みかかる。チッソという会社に、ひいては公害を生んだ社会に対して罵声を浴びせ、路上で患者の状況を語ってむせび泣く。
 でも、支援者の経験と患者の経験は、根本から異なっているはずだ。作中に、「いっしょに水銀を呑んでみろと、チッソの責任者に云ってやればいい」というセリフが登場する。でも、共に水銀を呑むことができないのは、すべての「支援者」も同じことではないのか。
 当事者と非当事者との断絶に対する反省が無いままに、当事者とともに突き進んでいく人々に、その心性に、私はぬぐいきれない違和感を覚えてしまう。
 怒れる非当事者は、「正義」をかさに愉しげに暴力を振るう人々へと、容易に転化しうるのではないか。
 
 当然、支援者にも様々なひとがいただろう。自らの非当事者性に悩んだ支援者もあったかもしれない。(そこは多分、水俣問題についての文献をひもとけば、ある程度、知ることができるんだろう)
 また、非当事者が当事者とともに声を上げることによって、様々な形で事態が開けていったというのも理解できる。
 他人の問題を自分の問題として引き受けて行動を起こすことができるのは、人間の美点である、という考え方もできよう。
 
 正直この問題は考えれば考えるほどわやくちゃになってしまうので(時代背景や細かい事実関係など、私の知らないことも多いし)、とりあえずこういう違和感を感じたよ、ということだけ。
 
■海の存在感
 海は汚され殺されたものの場ではなく、生きて今そこに在る場として描かれている。美しい。題材としては、ともすれば「チッソと行政 vs 患者と汚された世界」という二項対立の構図に収束しそうになるんだけど、この海の存在感は二項対立をはるかに超えたところにあり、見る人に複雑な余韻を残す。