『キャタピラー』見てきた。

十三・第七藝術劇場にて。かなり期待して行ったんだけれど、残念ながら良い映画だとは思えなかった。すごく勿体無い感じ。
というわけで、以下、若輩者が身の程も省みず批判しまっせ。

■あらすじ。
太平洋戦争のさなか、ひとりの兵士が変わり果てた姿で故郷に戻ってきた。四肢と聴力と言葉を失い、顔はひどく焼けただれ、それでも食欲と性欲は旺盛だった。勲章を受け、新聞にもその功績が取り上げられた彼は、村の者たちに軍神とあがめたてまつられる。
一方で妻は「軍神」の伴侶として、夫の介護をすべて引き受けていた。食べて、寝て、セックスすることしか出来ない、そんな男の食事から下の世話まで、すべて。
閉塞した関係性のなかで、二人は次第に追い詰められてゆく。そして日本の戦局もまた、悪化の一途を辿るばかり・・・。
・・・このような物語に、戦争当時の資料映像やら、広島・長崎原爆をはじめとした犠牲者数のデータやら、元ちとせの歌う「死んだ女の子」やらが絡む。まったき「反戦映画」だ。
で、その「反戦」を前面に押し出した部分が、どうも今ひとつだった。夫婦の関係をもっと細やかに描いて、戦争期の生活の(それも障害者を抱えた生活の)独特の困難さと悲惨さを具体的に提示することに徹するべきだったと思う。
大きな物語
妻は不具の夫を「軍神さま」として村人の前に引きずり出すことで、自らのあまりに逼塞した日々に意義を与えようとする。夫の方もまた、自分のことが載った新聞や勲章をなんども眺めて、我が身に起こったことの意味を確保しようとする。
この夫婦は自分達の負った困難、直面した不条理を「大日本帝國」という(当時は圧倒的だったであろう)大義を持ち出すことでなんとか合理化し、耐えうるものにしようとするのだ。しかし、最終的にその企ては失敗し、彼らは果てしなく追い詰められることになる。
こうして一旦、大きな物語に回収され損ねた悲惨は――そして、そのこと自体にひとつの本質があるような類の悲惨は――戦場や空襲の犠牲者を映した資料映像や犠牲者数のデータと組み合わされることによって、反転した形でふたたび大きな物語へと位置づけなおされてしまう。「何もかもあの戦争が悪かったのだ!」と。
それに、外部の者がだれも気にかけない所為で、障害者と介護者が閉じた状態で逼塞していく――というのは、十分に今日的な問題でもある。戦争期だけの話ではない。しかしこの映画ではそれも最終的に「戦争」に回収される。
あまりにも視野狭窄的なつくりだといわざるを得ない。
反戦ものって・・・
正直、「戦争が悪い!」ということをメインにすえてしまった瞬間に、『キャタピラー』の物語の強烈さは骨抜きにされ、まさにこのような物語であることの意義を失っているように見える。わたしたち戦争を知らない人間が子供の頃から(たとえば学校などで)注ぎ込まれてきた多種多様な反戦をまなざした物語、大きな物語とがっちり結びついた形でしか提示されない様々な悲話と、いくらでも取り替えることができる存在になってしまった、そんな印象を受ける。
そして、現代においてそういう物語群がリアリティや実効性を持ちうるか、ひとのこころに残りうるのか、私はとっても疑問に思う(いや、小学生のころ、私ゃ戦争童話なるものがでぇっ嫌ぇだったのよ・・・)。
フライヤーに載ってたフレーズ(「忘れるな、これが戦争だ」)からは、「戦争を風化させてはいけない」という意気込みがひしひしと感じられはするのだけれど、正直、上の世代の人がいつまでもこんな形の語り方にとらわれているのでは、<戦争の悲惨さ>は陳腐化し、結果として風化する一方なんじゃないだろうか――なんてことを思ったりもする。穿ち過ぎかもわからんけれど。
■あともうひとつ、ちょっと気になったこと。
キャタピラー>となった夫に何度も何度もトラウマ的に回帰する戦場の映像があるんだけれど、そのほとんどが「自分が中国の女性を犯して殺した」映像である理由がいまひとつわからん。傷を負った者に回帰して止まないのは、自分が傷ついたときの出来事なんじゃないのか、単純に考えれば。いや、彼が四肢を失ったときのものらしい映像もちょろっとあったにはあったんだけれど、強姦のシークエンスに対して、そっちはたったワンカットだったし。いろいろ説明はつけられるんだろうけど、うーん……。