「千年女優」のこと。映画と現実の関係、現実と非現実の関係。

■ずいぶん前にハイクでぼそぼそ書いてた印象がある程度まとまったので、練習がてら書いてみた。
  
■通常、私達は映画を見る際、映画の中の出来事を仮の現実として受容する。つまり、映画を見ているひとときのあいだ、私達は、普段自分が所属している現実を一部放棄し、映画内のことがらを、現実としてとらえなおしている。はず。そうでなければ、グロい映画がつらくて見られない! なんて状況は起こらないだろう。

 で。そこに、映画内現実からみた非現実のシーンが挿入されることがある。主人公の見ている夢とか、登場人物が妄想したことがらとか、そういうたぐいのものだ。
 映画の中では、非現実の内容も現実の内容も、まったく同じスクリーンという次元に現れる。*1映画内の現実と非現実(つまり観客にとっての一時的な現実と非現実)の区別については、映画の枠組みの中に組み込まれた「お約束」、そしてそれを表すシーン……たとえば、主人公がベッドから跳ね起きる、等……が、一種の識別記号のはたらきをする。
 でも、この識別記号、機能させないこともできる。あるいは別の記号によって効力を奪うことだってできる。

■ここで「千年女優」というアニメーション作品を例にとって話を進めたい。*2
 この作品の枠組みは、往年のスター女優である千代子が、小さなプロダクションの社長とカメラマンに自らの半生を語る、というものだ。この作品における「現実」は、千代子と社長たちが会合をしている部屋の中である。「非現実」は、千代子の語る自分の人生(過去=現実に準ずるもの)、そして、千代子の出演した映画作品(完全なる虚構)。この二つの非現実……正確には準現実と虚構は、千代子によって語られる中でひとつの「非現実」に融合する。
 そして、現実と非現実の境目も徐々にあいまいになってゆく。まず、千代子の語るできごとを表す映像の内部に、聞き手である社長たちが入り込む。ここまではまだいい。二人が(「現実」において)千代子の物語に聞き入っていることを、視覚的に表現しているととらえる事が出来るから。しかしそのうち、その映像の内部で起きているできごと(=「非現実」)に聞き手(=「現実」の人間)の二名が介入し始める。社長は千代子の語る物語の登場人物として、カメラマンはそれを外から見ている人物として。途中で場面が「現実」の部屋に戻り、社長と千代子が映画の台詞をごっこ遊びのように再現し、それをカメラマンが苦笑気味に撮影していることが示される。ああ、そういうことか、と観客はここで一旦納得しかけるけれど、完全に納得することはできない。何せ、「非現実」であるはずの世界で、馬賊が攻めてくるのを見たカメラマンは飛び上がって逃げたり、火攻めにされるのにびびったりしている。その行動はやはり、物語の聞き手の範疇を超えている。
 ここまでくると、観客のレヴェルからの現実と非現実の識別はもはや不可能である。映画の観客は、現実でも非現実でもない場所へ連れ去られてゆく。

■作品を、単純に鑑賞する時と少しずれた視点から解釈してみれば、女優・千代子が語って=演じていたのは自らの人生という映画であり、聞き手の二人はその映画の観客であり、彼らの映画をまた我々が観客として見ている、という入れ子の構造が浮かび上がる。
 しかし、この作品はそういう解釈よりも先に、現実と非現実の融合体として観客の前に現れる。映画という仮の現実を享受していたはずの観客は、いつの間にかその位置から連れ去られてしまう。

■で、映画がそういう、非現実と現実の融合体をつくりだす機能を持っているということに、どういう意味合いがあるのか、実はまだよくわかんない。
 じつは日常的な現実だってそれほど確かなもんじゃないのだということに気づかせるという働きは、あるにはある気がする。あるいは日常的な現実が、すべてが不確定な混沌の一部であるような状態を明らかにするかもしれない。それは救いであると同時に、床が抜けるような怖さでもある。

■でも、こういうことって、すでに誰かが書いてそうな気がすごくする。ってか絶対書いてるよなぁ。

*1:これはちょうど、日常的な現実と夢との間の関係――どっちも脳味噌のなかで起こる――と似ているけれども、区別のなさという点ではより徹底している

*2:監督の今敏は、現実と非現実の混在を扱った作品を主に制作している。今回千年女優を選んだのは、妄想代理人ほどの量がなくて分析しやすかったのと、パーフェクトブルーは未見なので。あと、パプリカは現実と非現実の混合を起こしつつも、全体としては両者をはっきりわけて対立させる枠組みを持ってると思うから。