■学校であったコミュニティ・アート関係のシンポジウムとワークショップに参加して、こんなことを考えた。

もしかしたらこれから自分が生きていくうえで軸になるかもしれない発想なので、書き残してみる。

■まず、何があったかというと。
A&A研究会というのが大阪にあるのです。アート&アクセス。
ちらしから勝手に抜粋させてもらうと
「アート&アクセス研究会は、障がいをもつ人や、入院している人、災害に遭っている人などと協働し、そこにアートを投入することによって、新たな出会いやコミュニケーションが生まれ、<囲い>が薄らいでいくことを目指します」

縁あって、シンポジウムやるから来なさいと云っていただけたので、行くことに。

■<囲い>を消すってことは、差異を承認し包み込む、ってことなんだと思う。
障害も、性差も、産まれも、考えも、何もかも、それはそれでいいのだ、そこにあっていいのだ、と承認すること。

■言葉以外の手段で人々が繋がりあうことを夢見る。
場を共有する、というか、言葉にした瞬間溶解してしまうようなものを共有する。
そこでは内と外、厳密さと曖昧さが共存する。

理解することの一歩手前、先述の、承認し承認されるということに繋がる連帯、一緒にいることで何かが立ちのぼるという事態。

それを可能にするのが例えば「アート」と呼ばれる手段なのではないか。
歌、踊り、使いようによっては絵とか。
そのためには身体を使うことが大切。手足。喉。目。うごくところならどこでもいい。

■もちろん言語も大事。語りかけると聞くことを放棄したら、やっぱそこで閉じてしまうので。
でも、非言語でほわんと連帯できる場所とか機会がいっぱいあるときっといいよね。
なんだかこういう、非常に感覚的なんだけど、そういうものを根っこにして生きていきたいと思った。

■なんだかんだで自意識過剰なお年頃なので、自分のほうに話が向かうわけですが。
今まで私はアタマだけで生きなきゃいけないと思っていた。理性と論理、他者を説得する為の的確な言葉こそが唯一絶対の正義。「わたし」が存在を許される為の条件。あと、禁止と許可、あれとそれはやっちゃだめ、これとこれはやってもいい、という判定を根っこに生きてきた。自分でひとつずつ禁止事項を作り、そこに入りきることが出来ずに、誰にともなくごめんなさいごめんなさい、って言い続けて、ああやっぱり自分は駄目なのだ、と自己嫌悪。
おつむの足りない自分は、心のどっかで、本当は生きてないほうがいいんだと思ってた。
だから視線は自分にしか行かない。禁止事項でいっぱいいっぱいになるから。つくづく私は自分にしか興味が無いのだなあ、と思っていた。
でも、まず承認してみたら。自分で自分を承認してみたら、他の人に何だか目が行く。


■ブログの最初のほうで遥がぼやいたような、アートって何ぞや、という話を延々したりもした。でも何ぞや、って私らが定義しようとした瞬間、本質のほうから逃げていく、そんな感じがした。

■しかしまあ、目下、遥が向き合わねばならんのはあれですね。学業ですね。
成績開示があったのですね。落っことしてましたね。二つほど。
明日から履修計画をぼやぼやと考えます。もう眠いー。